今もなお、伝え続けている<ナバイ劇場>
2014年 06月 01日
2014年5月30日付の朝日新聞の《世界発》のページに掲載されていた記事が、いきなり目に飛び込んできました。あ、これは・・・、今から10年前、自分が歌わせて頂いた劇場の記事です。
⇒続くBlogは、2007年にBlog『Tocca me』でご紹介した文章です。
はじめに・・・
皆さんは、ウズベキスタンの首都・タシケントに日本人によって建てられた<ナバイ劇場>という国立歌劇場があることをご存知ですか?建設当時、現地の人々と日本人との間には、感動的な事実が数多くあったとウズベキスタン人から聴きました。何がそこであったのか?その様子を知ることが出来る番組<ウズベキスタンに劇場を建てた日本人達>が、2007年7月30日に放映され、あらためて6年前の夏を思い出したのです・・・。
実は、その番組の制作・撮影スタッフが取材撮影でウズベキスタンに滞在していたちょうどその頃、私も国際交流文化基金による中央アジアオペラ公演『夕鶴』に出演するため約三週間、ウズベキスタンに滞在していました。あの時の光景、感触、風や空気、そして人々のぬくもりは、私に大きな感動をもたらしてくれました。
<2001年の暑い夏・・・>私の貴重な体験をここに書き綴っておきたいと思います。
2001年8月、私は『夕鶴』の共演者・スタッフとともに、ソウル行きの飛行機で日本を出発、真夜中に韓国につき一泊して、翌日タシケントに到着しました。↓タシケント上空
日本から2日がかりでやっと降り立ったタシケント。焼き付けるような強い日差しで視界は真っ白になりました。飛行場の建物の中はだだっ広く、外の明るさとはうってかわってとても薄暗くてひんやりとしていました。異様なほど人気がなく、あたりはし~んと静まりかえっていてこわいくらいでした。パスポートやビザのチェックのためずいぶん長い時間待たされていたように思います。私達一行は国賓扱いとして招待されていましたので、入国手続きも含めて、あちらではすべてが特別対応でした。
入国後は用意された大型バスに乗り込み、ガタガタと大きく左右上下にゆれながら、約一時間で街中にあるタシケント随一の近代的ホテルにつきました。これからしばらく見知らぬこの地で暮らす私達にとって、ホテルが安住の地となるか否かは大問題でしたので、アメリカ系の会社が経営する新しくモダンな建物をみてホッと一息つきました。広く高い天井に重厚な家具一式がそろった部屋で一休みしたあと、専用バスで街中に案内されると、街の中心地には東京でも見たこともない巨大な蜂の巣を連想させる高層マンションが、ニョキニョキとだだっ広い砂の大地にそびえていました。外は40℃を越す日差しで乾ききった大地。そこへ広場なのか道なのか区別がつかない広い緑地が見えてきて、葡萄の木が生い茂っていました。そこはまるでオアシス。強く照りつける日差しから免れることができる唯一の休息地帯です。
街中では多国の顔がみられ、白人にまざって多くの黄色人もいました。にぎわう円形型をした大きな市場で私もウズベキスタン人から時々ウズベキ語で話しかけられることがありました。
↓大きな市場
人々はみな質素な身なりでしたが、今の生活に満足しているような、にこやかでひとなつっこい笑顔が印象的でした。
そしてまた、砂埃を巻き上げながらバスに揺られ向かったところは<ナバイ国立歌劇場>です。
この劇場こそ、第二次世界大戦後、満州などで不法に抑留された日本人捕虜達の強制労働で建設された建物であり、ここでオペラ「夕鶴」の<つう>を歌うために私は、はるばる日本からやってきたのでした。
劇場は、レンガ造りの立派なビザンチン風な大きな建物で、その入り口には巨大な扉があります。中へ吸い込まれるように入ると、美しいパステルカラーの壁と天井、まばゆいばかりのシャンデリアが輝いていて、その優美さと壮大さに圧倒されたのです。
本当にこれを日本の兵隊さんが建てたの?・・・信じられない・・・。私は日本人でありながら、この事実を全く知らされていなかった事に唖然とし、これが現実なのだろうか・・・と、なかなか信じることができませんでした。私達の「夕鶴」を御覧になるために同行された、この劇場建設に携わった元日本兵の方々から伺った話です。『当時はもう帰国できる日を待ちわびるというよりは、帰国はあきらめていました。どうせ死ぬのならば、その日が来るまで精一杯に与えれた使命を全うしようと思っていました。』・・・この地で骨をうずめる覚悟で厳しい強制労働に携わった元日本人兵の方々の魂が、私の目の前にあるこの壁に、掘り込まれている細やかな細工や威風堂々とした建物に、今もなお息づいていたのです。劇場の空気に包みこまれた時に感じた、ぐっと胸にせまる感覚は今もまだ言葉では言いあらわすことができません。ささくれ傾いている劇場の木の床、すり減った木の階段や手すり・・・、建物すべてが私たちに何かを語っているかのようでした。
唖然と立ちすくみながら客席で天井を眺めていたとき、隣にいた劇場を掃除する係のウズベク人のおじさんが近づいてきてこう仰いました。『1966年、この地に大地震がおきて街中の建物の殆どは崩壊してしまったのだけれど、この劇場には被害はほとんど出なかったのだよ。なぜだかわかりますか?あの時、日本人が立派な仕事をしてくれたからです。劇場に必要な楽器も当時の日本兵が作ってくれたのです。この土地の人間は、いつも真面目で前向き、優しい心を持った日本人を心から尊敬していますよ。貴方達日本人が、私達の劇場で日本のオペラをやってくれるなんて、本当に楽しみにしていました。なんてたってこの劇場ではじめて、日本人による日本のオペラを見ることができるのですから。』」私は、心の底から感動していました・・・。
滞在期間中は、親切でにこやかな現地の人々に囲まれ、至福のひとときを過ごしました。ただ、唯一苦労した事といえば食事でした。とにかく水質がわるいのです。私は用心のため、念には念を入れて、うがいする水、歯磨きする水、顔をあらう水までミネラルウォーターを購入して使用していたのですが、2~3日するとお腹の具合がだんだん悪くなり、そのうち腹痛との闘いになりました。同行した共演者・スタッフのほぼ全員が、腹痛と下痢をおこし滞在中本当に大変だったのです。症状がひどい人は、日本大使館で働く方から薬をもらって、その特効薬をずっと飲み続けなければ治りませんでした。とにかく現地の食べ物、飲み物は口にしない!これが鉄則だったのですが、これから公演を控えている身で、何も食べないわけにはいきませんでしたから、私は、念のために日本から持ってきた携帯湯沸かし器をつかってミネラルウォーターでお湯をわかし、スーツケース一杯に詰め込んで持参したインスタント食品の味噌汁やおにぎり、麺類や惣菜などを大事に食べたり、朝のバイキングスタイルで出されたパンやクラッカー、ケーキやチーズなどを全部食べずにとっておいて、少しずつ大事に食べていました。でも果物は本当に新鮮で美味しいのです。特に、特大メロン!?それは長さ4~50センチくらいはある大きなラグビーボールのような形をしていました。暑い日に気軽に水を飲むことができないものにとって、この果物が唯一の水分補給源なのです。私もついつい出されるとあまりの渇きと、その甘い香に誘われて口にしてしまいました。しかしその後は必ず決まってお決まりのコース、トイレへまっしぐらでした。これは単にその果物のせいだけではなく、果物を切った包丁についていた水滴がいけなかったのかもしれません。ホテルのレストランで出された紅茶も駄目だったのですから・・・。現地ガイドに事情を説明したら、ホテルでも水道水を沸かして紅茶を出しているから、お腹が調子悪くなるのかもしれないと聞きました。その日から私は購入したミネラルウォーターを湯沸かし器でわかしてお茶を飲み用心しました。自分の身を守るには、絶対にここの生水は体内にいれない!これを徹底して実行するようにしたら、だんだん体調もよくなり、ようやく歌えるだけの体力が戻ってきました。
私達が到着する数日前からすでに舞台では公演にむけての準備が始まっていました。私達も現地のスタッフやオーケストラ・メンバーと一緒に早速稽古に入りました。オーケストラ・メンバーは、すべてウズベキスタンの音楽家達です。
ヴァイオリン、チェロ、ビオラ、フルート、オーボエ・・・etc. 必要な楽器は一応揃っているかのように見えました。しかし、<つう>が布を織る場面になったとき、いつもなら聴こえてくるハープの音が何か変なのです。指揮者がハープ奏者に聞きました。「何か弾いていない音はありませんか?」「すみません。ハープの弦が切れたままで正確に弾くことが出来ないのです。この劇場では、新しい弦をすぐに買うことが出来ないのです。」そうして楽団員は次々に自分の楽器も古くて音が悪いとか、壊れているから音が上手く出ないなど、音楽家として必要な道具をそろえることができない深刻な事情を聴かせてくれました。私達日本人はなんと応えたらよいのか言葉を失い、ただ彼らをみつめることしかできませんでした。ようやく口をひらいた指揮者は、「わかりました。今のままで大丈夫です。続けましょう・・・」その場に居合わせた日本人の胸は、切なさで張り裂けんばかりでした。このような事が、それから毎日のように劇場内で続出しました。照明器具や大道具などの不備やその他諸々・・・。また楽屋でも・・・。 私の楽屋は個室でしたが、以前はその部屋にトイレも化粧台もなかったようです。部屋に入るとそのかた隅にすりガラスの囲いがあり、その中に洋式トイレが設置してありました。洗面台も化粧台も新品でピカピカしていました。真夏でうだるような暑さでしたが、部屋には冷房はなく古い扇風機が1台ありました。↓楽屋にて
2幕途中で、楽屋にて瀕死のメイクと衣裳に・・・
楽屋番のおばさんが言いました。「貴女がここへ来る前に、この楽屋の全てを新品にしました。トイレも設置したし洗面台も化粧台も綺麗でしょう。ただ、窓のカーテンが間に合わなかったので、どうしましょう?」「すべてお任せします」とだけ私は言い残し、翌日のゲネプロの日を迎えました。その窓ガラスには、古新聞紙が貼ってありました。そして次の本番の日、その窓には真っ白な布がまるでカーテンのようにそよそよと風になびいてました。部屋の入り口でニコニコ笑いながらいつも私を迎え入れてくれたオバサンの目のなんと優しかったこと・・・。カーテンをどうしたらいいかと毎日一生懸命に考えてくれていたのでしょう。有難い有難い瞬間でした・・・。
↓終演後、楽屋にて・・・
この期間中、このような感動的体験が日常茶飯事おこりました。こうして、多くのハプニングに見舞われながらも、有難い気持ち一杯で無事に公演は終わりました。大きな拍手とどよめきの中でこの劇場が私達に教えてくれたことは、一体なんだったのでしょう。観客のみならず、私達日本人出演者・スタッフ全てが感動した瞬間でした。終演後、ウズベキスタンの新聞記者が私の楽屋へやって来てきて、「あなたは<つう>役で、<無償の愛>を演じましたが、難しくありませんでしたか?貴女自身、<無償の愛>で生きられますか?」と、問いかけてきました。
その後、カザフスタンでも私達一行はオペラ公演「夕鶴」を行い、キルギスをまわって9月6日、無事帰国しました。・・・その矢先、まだ記憶に新しい事件、アメリカに悲惨な大きなテロが勃発。多くの命が犠牲になりました。思い出のウズベキスタンの飛行場も緊急体制となり閉鎖され、ひとごとではすまされない、ひどく重く沈んだ気持ちになったことをよく覚えています。人種を超え時代を超えて、世界人類すべては互いに生きる尊さと喜びを分かち合うことが大切である・・・そう伝え続けている<ナバイ劇場>・・・。<ナバイ劇場>は今、私達に何を語りかけているのでしょう。その答えを私は絶えず探し求めていきたいと思います。
当時、ナバイ劇場の建設に携わった永田行夫さんの手記がこちらから御覧になれます。
http://homepage2.nifty.com/silkroad_uzbek/works/2001/04_yuzuru_nagata.html
⇒続くBlogは、2007年にBlog『Tocca me』でご紹介した文章です。
はじめに・・・
皆さんは、ウズベキスタンの首都・タシケントに日本人によって建てられた<ナバイ劇場>という国立歌劇場があることをご存知ですか?建設当時、現地の人々と日本人との間には、感動的な事実が数多くあったとウズベキスタン人から聴きました。何がそこであったのか?その様子を知ることが出来る番組<ウズベキスタンに劇場を建てた日本人達>が、2007年7月30日に放映され、あらためて6年前の夏を思い出したのです・・・。
実は、その番組の制作・撮影スタッフが取材撮影でウズベキスタンに滞在していたちょうどその頃、私も国際交流文化基金による中央アジアオペラ公演『夕鶴』に出演するため約三週間、ウズベキスタンに滞在していました。あの時の光景、感触、風や空気、そして人々のぬくもりは、私に大きな感動をもたらしてくれました。
<2001年の暑い夏・・・>私の貴重な体験をここに書き綴っておきたいと思います。
2001年8月、私は『夕鶴』の共演者・スタッフとともに、ソウル行きの飛行機で日本を出発、真夜中に韓国につき一泊して、翌日タシケントに到着しました。↓タシケント上空
日本から2日がかりでやっと降り立ったタシケント。焼き付けるような強い日差しで視界は真っ白になりました。飛行場の建物の中はだだっ広く、外の明るさとはうってかわってとても薄暗くてひんやりとしていました。異様なほど人気がなく、あたりはし~んと静まりかえっていてこわいくらいでした。パスポートやビザのチェックのためずいぶん長い時間待たされていたように思います。私達一行は国賓扱いとして招待されていましたので、入国手続きも含めて、あちらではすべてが特別対応でした。
入国後は用意された大型バスに乗り込み、ガタガタと大きく左右上下にゆれながら、約一時間で街中にあるタシケント随一の近代的ホテルにつきました。これからしばらく見知らぬこの地で暮らす私達にとって、ホテルが安住の地となるか否かは大問題でしたので、アメリカ系の会社が経営する新しくモダンな建物をみてホッと一息つきました。広く高い天井に重厚な家具一式がそろった部屋で一休みしたあと、専用バスで街中に案内されると、街の中心地には東京でも見たこともない巨大な蜂の巣を連想させる高層マンションが、ニョキニョキとだだっ広い砂の大地にそびえていました。外は40℃を越す日差しで乾ききった大地。そこへ広場なのか道なのか区別がつかない広い緑地が見えてきて、葡萄の木が生い茂っていました。そこはまるでオアシス。強く照りつける日差しから免れることができる唯一の休息地帯です。
街中では多国の顔がみられ、白人にまざって多くの黄色人もいました。にぎわう円形型をした大きな市場で私もウズベキスタン人から時々ウズベキ語で話しかけられることがありました。
↓大きな市場
人々はみな質素な身なりでしたが、今の生活に満足しているような、にこやかでひとなつっこい笑顔が印象的でした。
そしてまた、砂埃を巻き上げながらバスに揺られ向かったところは<ナバイ国立歌劇場>です。
この劇場こそ、第二次世界大戦後、満州などで不法に抑留された日本人捕虜達の強制労働で建設された建物であり、ここでオペラ「夕鶴」の<つう>を歌うために私は、はるばる日本からやってきたのでした。
劇場は、レンガ造りの立派なビザンチン風な大きな建物で、その入り口には巨大な扉があります。中へ吸い込まれるように入ると、美しいパステルカラーの壁と天井、まばゆいばかりのシャンデリアが輝いていて、その優美さと壮大さに圧倒されたのです。
本当にこれを日本の兵隊さんが建てたの?・・・信じられない・・・。私は日本人でありながら、この事実を全く知らされていなかった事に唖然とし、これが現実なのだろうか・・・と、なかなか信じることができませんでした。私達の「夕鶴」を御覧になるために同行された、この劇場建設に携わった元日本兵の方々から伺った話です。『当時はもう帰国できる日を待ちわびるというよりは、帰国はあきらめていました。どうせ死ぬのならば、その日が来るまで精一杯に与えれた使命を全うしようと思っていました。』・・・この地で骨をうずめる覚悟で厳しい強制労働に携わった元日本人兵の方々の魂が、私の目の前にあるこの壁に、掘り込まれている細やかな細工や威風堂々とした建物に、今もなお息づいていたのです。劇場の空気に包みこまれた時に感じた、ぐっと胸にせまる感覚は今もまだ言葉では言いあらわすことができません。ささくれ傾いている劇場の木の床、すり減った木の階段や手すり・・・、建物すべてが私たちに何かを語っているかのようでした。
唖然と立ちすくみながら客席で天井を眺めていたとき、隣にいた劇場を掃除する係のウズベク人のおじさんが近づいてきてこう仰いました。『1966年、この地に大地震がおきて街中の建物の殆どは崩壊してしまったのだけれど、この劇場には被害はほとんど出なかったのだよ。なぜだかわかりますか?あの時、日本人が立派な仕事をしてくれたからです。劇場に必要な楽器も当時の日本兵が作ってくれたのです。この土地の人間は、いつも真面目で前向き、優しい心を持った日本人を心から尊敬していますよ。貴方達日本人が、私達の劇場で日本のオペラをやってくれるなんて、本当に楽しみにしていました。なんてたってこの劇場ではじめて、日本人による日本のオペラを見ることができるのですから。』」私は、心の底から感動していました・・・。
滞在期間中は、親切でにこやかな現地の人々に囲まれ、至福のひとときを過ごしました。ただ、唯一苦労した事といえば食事でした。とにかく水質がわるいのです。私は用心のため、念には念を入れて、うがいする水、歯磨きする水、顔をあらう水までミネラルウォーターを購入して使用していたのですが、2~3日するとお腹の具合がだんだん悪くなり、そのうち腹痛との闘いになりました。同行した共演者・スタッフのほぼ全員が、腹痛と下痢をおこし滞在中本当に大変だったのです。症状がひどい人は、日本大使館で働く方から薬をもらって、その特効薬をずっと飲み続けなければ治りませんでした。とにかく現地の食べ物、飲み物は口にしない!これが鉄則だったのですが、これから公演を控えている身で、何も食べないわけにはいきませんでしたから、私は、念のために日本から持ってきた携帯湯沸かし器をつかってミネラルウォーターでお湯をわかし、スーツケース一杯に詰め込んで持参したインスタント食品の味噌汁やおにぎり、麺類や惣菜などを大事に食べたり、朝のバイキングスタイルで出されたパンやクラッカー、ケーキやチーズなどを全部食べずにとっておいて、少しずつ大事に食べていました。でも果物は本当に新鮮で美味しいのです。特に、特大メロン!?それは長さ4~50センチくらいはある大きなラグビーボールのような形をしていました。暑い日に気軽に水を飲むことができないものにとって、この果物が唯一の水分補給源なのです。私もついつい出されるとあまりの渇きと、その甘い香に誘われて口にしてしまいました。しかしその後は必ず決まってお決まりのコース、トイレへまっしぐらでした。これは単にその果物のせいだけではなく、果物を切った包丁についていた水滴がいけなかったのかもしれません。ホテルのレストランで出された紅茶も駄目だったのですから・・・。現地ガイドに事情を説明したら、ホテルでも水道水を沸かして紅茶を出しているから、お腹が調子悪くなるのかもしれないと聞きました。その日から私は購入したミネラルウォーターを湯沸かし器でわかしてお茶を飲み用心しました。自分の身を守るには、絶対にここの生水は体内にいれない!これを徹底して実行するようにしたら、だんだん体調もよくなり、ようやく歌えるだけの体力が戻ってきました。
私達が到着する数日前からすでに舞台では公演にむけての準備が始まっていました。私達も現地のスタッフやオーケストラ・メンバーと一緒に早速稽古に入りました。オーケストラ・メンバーは、すべてウズベキスタンの音楽家達です。
ヴァイオリン、チェロ、ビオラ、フルート、オーボエ・・・etc. 必要な楽器は一応揃っているかのように見えました。しかし、<つう>が布を織る場面になったとき、いつもなら聴こえてくるハープの音が何か変なのです。指揮者がハープ奏者に聞きました。「何か弾いていない音はありませんか?」「すみません。ハープの弦が切れたままで正確に弾くことが出来ないのです。この劇場では、新しい弦をすぐに買うことが出来ないのです。」そうして楽団員は次々に自分の楽器も古くて音が悪いとか、壊れているから音が上手く出ないなど、音楽家として必要な道具をそろえることができない深刻な事情を聴かせてくれました。私達日本人はなんと応えたらよいのか言葉を失い、ただ彼らをみつめることしかできませんでした。ようやく口をひらいた指揮者は、「わかりました。今のままで大丈夫です。続けましょう・・・」その場に居合わせた日本人の胸は、切なさで張り裂けんばかりでした。このような事が、それから毎日のように劇場内で続出しました。照明器具や大道具などの不備やその他諸々・・・。また楽屋でも・・・。 私の楽屋は個室でしたが、以前はその部屋にトイレも化粧台もなかったようです。部屋に入るとそのかた隅にすりガラスの囲いがあり、その中に洋式トイレが設置してありました。洗面台も化粧台も新品でピカピカしていました。真夏でうだるような暑さでしたが、部屋には冷房はなく古い扇風機が1台ありました。↓楽屋にて
2幕途中で、楽屋にて瀕死のメイクと衣裳に・・・
楽屋番のおばさんが言いました。「貴女がここへ来る前に、この楽屋の全てを新品にしました。トイレも設置したし洗面台も化粧台も綺麗でしょう。ただ、窓のカーテンが間に合わなかったので、どうしましょう?」「すべてお任せします」とだけ私は言い残し、翌日のゲネプロの日を迎えました。その窓ガラスには、古新聞紙が貼ってありました。そして次の本番の日、その窓には真っ白な布がまるでカーテンのようにそよそよと風になびいてました。部屋の入り口でニコニコ笑いながらいつも私を迎え入れてくれたオバサンの目のなんと優しかったこと・・・。カーテンをどうしたらいいかと毎日一生懸命に考えてくれていたのでしょう。有難い有難い瞬間でした・・・。
↓終演後、楽屋にて・・・
この期間中、このような感動的体験が日常茶飯事おこりました。こうして、多くのハプニングに見舞われながらも、有難い気持ち一杯で無事に公演は終わりました。大きな拍手とどよめきの中でこの劇場が私達に教えてくれたことは、一体なんだったのでしょう。観客のみならず、私達日本人出演者・スタッフ全てが感動した瞬間でした。終演後、ウズベキスタンの新聞記者が私の楽屋へやって来てきて、「あなたは<つう>役で、<無償の愛>を演じましたが、難しくありませんでしたか?貴女自身、<無償の愛>で生きられますか?」と、問いかけてきました。
その後、カザフスタンでも私達一行はオペラ公演「夕鶴」を行い、キルギスをまわって9月6日、無事帰国しました。・・・その矢先、まだ記憶に新しい事件、アメリカに悲惨な大きなテロが勃発。多くの命が犠牲になりました。思い出のウズベキスタンの飛行場も緊急体制となり閉鎖され、ひとごとではすまされない、ひどく重く沈んだ気持ちになったことをよく覚えています。人種を超え時代を超えて、世界人類すべては互いに生きる尊さと喜びを分かち合うことが大切である・・・そう伝え続けている<ナバイ劇場>・・・。<ナバイ劇場>は今、私達に何を語りかけているのでしょう。その答えを私は絶えず探し求めていきたいと思います。
当時、ナバイ劇場の建設に携わった永田行夫さんの手記がこちらから御覧になれます。
http://homepage2.nifty.com/silkroad_uzbek/works/2001/04_yuzuru_nagata.html
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by ancella4
| 2014-06-01 00:00