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今もなお、伝え続けている<ナバイ劇場>

2014年5月30日付の朝日新聞の《世界発》のページに掲載されていた記事が、いきなり目に飛び込んできました。あ、これは・・・、今から10年前、自分が歌わせて頂いた劇場の記事です。

⇒続くBlogは、2007年にBlog『Tocca me』でご紹介した文章です。

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はじめに・・・
皆さんは、ウズベキスタンの首都・タシケントに日本人によって建てられた<ナバイ劇場>という国立歌劇場があることをご存知ですか?建設当時、現地の人々と日本人との間には、感動的な事実が数多くあったとウズベキスタン人から聴きました。何がそこであったのか?その様子を知ることが出来る番組<ウズベキスタンに劇場を建てた日本人達>が、2007年7月30日に放映され、あらためて6年前の夏を思い出したのです・・・。
実は、その番組の制作・撮影スタッフが取材撮影でウズベキスタンに滞在していたちょうどその頃、私も国際交流文化基金による中央アジアオペラ公演『夕鶴』に出演するため約三週間、ウズベキスタンに滞在していました。あの時の光景、感触、風や空気、そして人々のぬくもりは、私に大きな感動をもたらしてくれました。
<2001年の暑い夏・・・>私の貴重な体験をここに書き綴っておきたいと思います。

2001年8月、私は『夕鶴』の共演者・スタッフとともに、ソウル行きの飛行機で日本を出発、真夜中に韓国につき一泊して、翌日タシケントに到着しました。↓タシケント上空

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日本から2日がかりでやっと降り立ったタシケント。焼き付けるような強い日差しで視界は真っ白になりました。飛行場の建物の中はだだっ広く、外の明るさとはうってかわってとても薄暗くてひんやりとしていました。異様なほど人気がなく、あたりはし~んと静まりかえっていてこわいくらいでした。パスポートやビザのチェックのためずいぶん長い時間待たされていたように思います。私達一行は国賓扱いとして招待されていましたので、入国手続きも含めて、あちらではすべてが特別対応でした。

入国後は用意された大型バスに乗り込み、ガタガタと大きく左右上下にゆれながら、約一時間で街中にあるタシケント随一の近代的ホテルにつきました。これからしばらく見知らぬこの地で暮らす私達にとって、ホテルが安住の地となるか否かは大問題でしたので、アメリカ系の会社が経営する新しくモダンな建物をみてホッと一息つきました。広く高い天井に重厚な家具一式がそろった部屋で一休みしたあと、専用バスで街中に案内されると、街の中心地には東京でも見たこともない巨大な蜂の巣を連想させる高層マンションが、ニョキニョキとだだっ広い砂の大地にそびえていました。外は40℃を越す日差しで乾ききった大地。そこへ広場なのか道なのか区別がつかない広い緑地が見えてきて、葡萄の木が生い茂っていました。そこはまるでオアシス。強く照りつける日差しから免れることができる唯一の休息地帯です。

街中では多国の顔がみられ、白人にまざって多くの黄色人もいました。にぎわう円形型をした大きな市場で私もウズベキスタン人から時々ウズベキ語で話しかけられることがありました。
↓大きな市場
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人々はみな質素な身なりでしたが、今の生活に満足しているような、にこやかでひとなつっこい笑顔が印象的でした。
そしてまた、砂埃を巻き上げながらバスに揺られ向かったところは<ナバイ国立歌劇場>です。
この劇場こそ、第二次世界大戦後、満州などで不法に抑留された日本人捕虜達の強制労働で建設された建物であり、ここでオペラ「夕鶴」の<つう>を歌うために私は、はるばる日本からやってきたのでした。
劇場は、レンガ造りの立派なビザンチン風な大きな建物で、その入り口には巨大な扉があります。中へ吸い込まれるように入ると、美しいパステルカラーの壁と天井、まばゆいばかりのシャンデリアが輝いていて、その優美さと壮大さに圧倒されたのです。

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本当にこれを日本の兵隊さんが建てたの?・・・信じられない・・・。私は日本人でありながら、この事実を全く知らされていなかった事に唖然とし、これが現実なのだろうか・・・と、なかなか信じることができませんでした。私達の「夕鶴」を御覧になるために同行された、この劇場建設に携わった元日本兵の方々から伺った話です。『当時はもう帰国できる日を待ちわびるというよりは、帰国はあきらめていました。どうせ死ぬのならば、その日が来るまで精一杯に与えれた使命を全うしようと思っていました。』・・・この地で骨をうずめる覚悟で厳しい強制労働に携わった元日本人兵の方々の魂が、私の目の前にあるこの壁に、掘り込まれている細やかな細工や威風堂々とした建物に、今もなお息づいていたのです。劇場の空気に包みこまれた時に感じた、ぐっと胸にせまる感覚は今もまだ言葉では言いあらわすことができません。ささくれ傾いている劇場の木の床、すり減った木の階段や手すり・・・、建物すべてが私たちに何かを語っているかのようでした。
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唖然と立ちすくみながら客席で天井を眺めていたとき、隣にいた劇場を掃除する係のウズベク人のおじさんが近づいてきてこう仰いました。『1966年、この地に大地震がおきて街中の建物の殆どは崩壊してしまったのだけれど、この劇場には被害はほとんど出なかったのだよ。なぜだかわかりますか?あの時、日本人が立派な仕事をしてくれたからです。劇場に必要な楽器も当時の日本兵が作ってくれたのです。この土地の人間は、いつも真面目で前向き、優しい心を持った日本人を心から尊敬していますよ。貴方達日本人が、私達の劇場で日本のオペラをやってくれるなんて、本当に楽しみにしていました。なんてたってこの劇場ではじめて、日本人による日本のオペラを見ることができるのですから。』」私は、心の底から感動していました・・・。
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滞在期間中は、親切でにこやかな現地の人々に囲まれ、至福のひとときを過ごしました。ただ、唯一苦労した事といえば食事でした。とにかく水質がわるいのです。私は用心のため、念には念を入れて、うがいする水、歯磨きする水、顔をあらう水までミネラルウォーターを購入して使用していたのですが、2~3日するとお腹の具合がだんだん悪くなり、そのうち腹痛との闘いになりました。同行した共演者・スタッフのほぼ全員が、腹痛と下痢をおこし滞在中本当に大変だったのです。症状がひどい人は、日本大使館で働く方から薬をもらって、その特効薬をずっと飲み続けなければ治りませんでした。とにかく現地の食べ物、飲み物は口にしない!これが鉄則だったのですが、これから公演を控えている身で、何も食べないわけにはいきませんでしたから、私は、念のために日本から持ってきた携帯湯沸かし器をつかってミネラルウォーターでお湯をわかし、スーツケース一杯に詰め込んで持参したインスタント食品の味噌汁やおにぎり、麺類や惣菜などを大事に食べたり、朝のバイキングスタイルで出されたパンやクラッカー、ケーキやチーズなどを全部食べずにとっておいて、少しずつ大事に食べていました。でも果物は本当に新鮮で美味しいのです。特に、特大メロン!?それは長さ4~50センチくらいはある大きなラグビーボールのような形をしていました。暑い日に気軽に水を飲むことができないものにとって、この果物が唯一の水分補給源なのです。私もついつい出されるとあまりの渇きと、その甘い香に誘われて口にしてしまいました。しかしその後は必ず決まってお決まりのコース、トイレへまっしぐらでした。これは単にその果物のせいだけではなく、果物を切った包丁についていた水滴がいけなかったのかもしれません。ホテルのレストランで出された紅茶も駄目だったのですから・・・。現地ガイドに事情を説明したら、ホテルでも水道水を沸かして紅茶を出しているから、お腹が調子悪くなるのかもしれないと聞きました。その日から私は購入したミネラルウォーターを湯沸かし器でわかしてお茶を飲み用心しました。自分の身を守るには、絶対にここの生水は体内にいれない!これを徹底して実行するようにしたら、だんだん体調もよくなり、ようやく歌えるだけの体力が戻ってきました。

私達が到着する数日前からすでに舞台では公演にむけての準備が始まっていました。私達も現地のスタッフやオーケストラ・メンバーと一緒に早速稽古に入りました。オーケストラ・メンバーは、すべてウズベキスタンの音楽家達です。
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ヴァイオリン、チェロ、ビオラ、フルート、オーボエ・・・etc. 必要な楽器は一応揃っているかのように見えました。しかし、<つう>が布を織る場面になったとき、いつもなら聴こえてくるハープの音が何か変なのです。指揮者がハープ奏者に聞きました。「何か弾いていない音はありませんか?」「すみません。ハープの弦が切れたままで正確に弾くことが出来ないのです。この劇場では、新しい弦をすぐに買うことが出来ないのです。」そうして楽団員は次々に自分の楽器も古くて音が悪いとか、壊れているから音が上手く出ないなど、音楽家として必要な道具をそろえることができない深刻な事情を聴かせてくれました。私達日本人はなんと応えたらよいのか言葉を失い、ただ彼らをみつめることしかできませんでした。ようやく口をひらいた指揮者は、「わかりました。今のままで大丈夫です。続けましょう・・・」その場に居合わせた日本人の胸は、切なさで張り裂けんばかりでした。このような事が、それから毎日のように劇場内で続出しました。照明器具や大道具などの不備やその他諸々・・・。また楽屋でも・・・。 私の楽屋は個室でしたが、以前はその部屋にトイレも化粧台もなかったようです。部屋に入るとそのかた隅にすりガラスの囲いがあり、その中に洋式トイレが設置してありました。洗面台も化粧台も新品でピカピカしていました。真夏でうだるような暑さでしたが、部屋には冷房はなく古い扇風機が1台ありました。↓楽屋にて
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2幕途中で、楽屋にて瀕死のメイクと衣裳に・・・
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楽屋番のおばさんが言いました。「貴女がここへ来る前に、この楽屋の全てを新品にしました。トイレも設置したし洗面台も化粧台も綺麗でしょう。ただ、窓のカーテンが間に合わなかったので、どうしましょう?」「すべてお任せします」とだけ私は言い残し、翌日のゲネプロの日を迎えました。その窓ガラスには、古新聞紙が貼ってありました。そして次の本番の日、その窓には真っ白な布がまるでカーテンのようにそよそよと風になびいてました。部屋の入り口でニコニコ笑いながらいつも私を迎え入れてくれたオバサンの目のなんと優しかったこと・・・。カーテンをどうしたらいいかと毎日一生懸命に考えてくれていたのでしょう。有難い有難い瞬間でした・・・。
↓終演後、楽屋にて・・・
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この期間中、このような感動的体験が日常茶飯事おこりました。こうして、多くのハプニングに見舞われながらも、有難い気持ち一杯で無事に公演は終わりました。大きな拍手とどよめきの中でこの劇場が私達に教えてくれたことは、一体なんだったのでしょう。観客のみならず、私達日本人出演者・スタッフ全てが感動した瞬間でした。終演後、ウズベキスタンの新聞記者が私の楽屋へやって来てきて、「あなたは<つう>役で、<無償の愛>を演じましたが、難しくありませんでしたか?貴女自身、<無償の愛>で生きられますか?」と、問いかけてきました。

その後、カザフスタンでも私達一行はオペラ公演「夕鶴」を行い、キルギスをまわって9月6日、無事帰国しました。・・・その矢先、まだ記憶に新しい事件、アメリカに悲惨な大きなテロが勃発。多くの命が犠牲になりました。思い出のウズベキスタンの飛行場も緊急体制となり閉鎖され、ひとごとではすまされない、ひどく重く沈んだ気持ちになったことをよく覚えています。人種を超え時代を超えて、世界人類すべては互いに生きる尊さと喜びを分かち合うことが大切である・・・そう伝え続けている<ナバイ劇場>・・・。<ナバイ劇場>は今、私達に何を語りかけているのでしょう。その答えを私は絶えず探し求めていきたいと思います。

当時、ナバイ劇場の建設に携わった永田行夫さんの手記がこちらから御覧になれます。

http://homepage2.nifty.com/silkroad_uzbek/works/2001/04_yuzuru_nagata.html
# by ancella4 | 2014-06-01 00:00

♪~みんな、生きているんだ!友達なんだ~♪

【口蹄疫】…以前には『狂牛病』や『鳥インフルエンザ』も流行した。
牛も豚も鳥も人間と同じ、生き物!風邪もひけば病気もする。
しかし人間と違って、彼らが病気になるとどうなる?
伝染病ならば必ず〈殺処理〉、つまり殺されてしまう。
今回の場合もそうだ・・・感染したりそのおそれがある牛や豚は、ワクチン注射をされ、
電流を流されて苦痛の叫びをあげ、ドカっと倒れ死んでいくらしい。
その現場は「まるで地獄絵をみるようだ」と書き記してあるものを読んだ。
あまりの惨状は、まさに戦場にいるような光景。
処分する役目を担う人々の心を思うとあまりにも気の毒でいたたまれない。
いくらお国のためだとはいえ、彼らの脳裏にはこの光景がきっと一生やきついて
離れないのだから。
一般人も、処理現場で今、一体何が行われているのかという事実をしっかり知り、
ちゃんとうけとめなくてはいけないのではないだろうか?とさえ思えてきた。
いやいや、日常からして、牛や豚や鳥たちがどのように殺され、
市場に食材の<肉>として並ぶのかさえも知らされていない私達…。
【肉】は勝手に【肉】にはならないし、
<皮>は勝手に<靴>や<鞄>にはならないのに・・・。
この世の中にあって、人間はまさに人間様?牛も豚も鳥もただの物質だ!?

今回の【口蹄疫】のニュースを耳にするにつけ、ついやり過ごしている日常生活の中に、
人間様のために多くの犠牲があることをあらためて思うのだ。

私は、10年前から<肉食>を好まなくなった。ダイエットでもなければ、健康のためでもない。
ある国に滞在していた時のこと、街の市場でみた光景があまりにもショックだったのだ!
それ以来、私は<肉>を口にすることに<ためらい>を感じるようになった。
・・・肉屋片隅・・・、ウサギや小鹿や子牛が喉をかききられ口から血を流し、
店頭に逆さ吊りにされてぶら下がっていた。
ショーケースには、豚や牛の皮をはがれたまま、丸ごと頭が陳列されていた。
このような風景は、現地では当たり前の光景。なぜなら、この国民の主食は昔から<肉>だ。
彼らは昔から<肉>を食し<命>をつないできた。
市場で言葉もなくただ驚く私を見て、現地の友人が言った。
「市場でなくても、実家の田舎では来客や祝いの宴のたびに庭先で、家畜は殺され、
皆にふるまわれます。」 (そうか・・・、これが本当の肉食の生活か・・・)
彼らは家畜を飼育し、自分たちの手で殺し、食し、生活しているのだ。
そして、「決してその<命>を無駄にすることはしない・・・」と、友人は言った。
差し出されたすべての物を生かすのだ。 肉、内臓、皮、骨。。。
そして「動物への<弔いや感謝の気持ち>は、決して忘れない」と、友人は言った。

日本人も、昔から動物や野菜や穀物など、たくさんの<命>をいただいて生きている。
私達の為に犠牲になる<命>に対して、「いただきます」と手を合わせる習慣もある。
しかし、今の日本において、この意味を知っての習慣が
生活に生かされているだろうか?
ほら・・・、またそこで「私にはそんな事は関係ない!」と言わんばかりに、
<肉>をむしゃむしゃ食べる人がいる。
街には、【焼き肉食べ放題】や【○○ハンバーガー】などの看板だ。
口にする中身が、すべて<命>だったなんてまるでお構いなし?!
むしゃむしゃ食べて、いらなくなれば、食べ残す・・・。
こうして私達は、これからも無駄な殺生をおかし、生きながらえていくのか・・・?
「人間よ!いつか仕返ししてやる!」
以前見た【鳥】という映画を思い出す。あれはまさに人間への警告・・・。

【口蹄疫】や【狂牛病】や【鳥インフルエンザ】が流行する昨今、
「僕らが人間様に与えた命を決して忘れてくれるな!」と、
〈牛や豚や鳥たち〉の心の叫びが聞こえてくるのは、私だけだろうか?
生き物は、他の<命>を食して生きる…これは、生き物の宿命・・・。
ならば私達は、生きるためだけに必要なぶんだけの<殺生>でよいではないか?
そうは言っても、この人間様の世の中は、贅沢三昧!
わがままな<殺生>は、そう簡単にはなくならない。
せめてその罪滅ぼしにと、『謝肉祭』というものがある国もある。
<命>への感謝と、弔いの心・・・
日本にもせめて、国民で想う『謝肉祭』のような日が必要ではないのか?
犠牲になっていく<命>に対し、<感謝>の心を・・・。
やっぱり、あの歌みたいに、♪~みんなみんな生きているんだ、友達なんだ~♪
・・・なのである!

新聞を読むのが好きだった賢い<ヒナちゃん>のありし姿↓
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# by ancella4 | 2010-05-30 10:53

壁がしゃべるよ

ヴィーヴァ・イタリア!『壁がしゃべるよ』 ~イタリアで学んだこと~    

ある日、都内のレストランに入りテーブルについた時のこと、隣りのテーブルにいたカップルの女性に見覚えが。(あら?あの方○○さんだわ。後で挨拶をしてから帰ろう・・・)そんな事を思いながら、食事を始めました。するとお隣から何やらヒソヒソ。聴きたくなくても耳に入ってくる噂。
困ったことにその噂話の主は、私もよく知っている人ばかり。次から次へと悪口のオンパレードへと化していくではありませんか。もはや挨拶どころではありません。せっかくのご馳走もそこそこに、私はその場から立ち去りました。

昔から『壁に耳あり障子に目あり』とはよく言ったものです。悪口はどんな時でも、言わないに限ります。悪口を言わない一生が過ごせたら、どんなにかスッキリした人生になることでしょう。「もしも誰かの悪口を言いたくなったら、本人に直接伝えるべき!」こう言って私に<愉快な生き方>を伝授してくれた人がいます。その人は、このコーナーで以前ご紹介したことがあるイタリアのマンマ(お母さん)こと、フランカおばさんです!私はイタリア留学中、このフランカおばさんから、<愉快に生きる>ということはどういうことかを肌で学びました。イタリアにも日本と同じように沢山の諺があります。例えば、I muri parlano, I muri hanno orecchi..
=壁がしゃべるよ、壁には耳があるよ=これは『壁に耳あり、障子に目あり』と同じ意味です。フランカおばさんはこの諺を例に出して、ある日、私に言いました。「悪口を言いたくなったらマユミならどうする?私は、直接本人に言うよ。そうすれば悪口にならないし、第一、本人の為にもなるからね」悪口は内緒でコソコソが当たり前だと思っていたら、フランカおばさんは違っていたのです。「さっきアンナと会っていたのだけれど、彼女は最近、噂や悪口、自慢話ばっかり。そんな話を聴かされるなんて、マユミも嫌だろ?今からアンナに電話してみるから、マユミもここで聴いていなさい。どう伝えたらアンナは私の気持ちを理解してくれるかな?」フランカおばさんは、そう言うと早速アンナさんに電話をかけたのです。「アンナ!アンナは最近噂話や悪口や自慢ばかり。さっきもそうだったよ。私は悲しいよ。今のアンナは私の好きなアンナじゃない!」興奮し真っ赤になって目に涙をためながらアンナと対決するフランカおばさん・・・。まるでオペラを見ているかのように劇的な光景です。5分位たった頃でしょうか。フランカおばさんの顔が、いきなり満面の笑みにかわりました。
有難うアンナ。貴女って本当にブラヴァー(素晴らしい)!チャオチャオ!」
こうしてフランカおばさんとアンナさんは、無事に仲直りができたのです。

当時、イタリアに来たばかりの私には、まるで『魔法』にでもかかったかのようなこの話の展開にただ驚くばかり。しかし、イタリアで生活しているうちに、私にもフランカおばさんがあの時使った『魔法』が何だったのか、次第にわかってきました。それは、フランカおばさんならではの<楽天的>な生き方にあったのです。日本人は真面目で親切。これは外国の方からよく言われる褒め言葉です。しかしその一方で日本人は思っていることをはっきり表現しないから、何を考えているのかわからない、とも言われがちです。私はイタリアで生活していて、あることに気づきました。とかく日本人は真剣になればなるほど<深刻>になってしまいがちではないかと。嫌なことがあるとすぐマイナス思考になり<深刻>になる。又は、どこからともなく<事なかれ主義>が顔を出し、目の前の問題から目をそらしたり、見て見ぬふり。もしこれが多かれ少なかれ日本人の一面だとすれば、日本人は<楽天的><愉快な生き方>から程遠い存在になってしまいます。

フランカおばさんは、イタリア人の良い所をまるで絵に描いたように沢山持っている人です。
くよくよせず、明るい方向に物事を考える。私はフランカおばさんと同じ空気を吸い、<楽天的><愉快な生き方>を自然に学びました。それは決して難しいことではありません。
<心の持ち方>を工夫さえすれば大丈夫!
イタリアで私が心がけたことは、まず自分の思いをめっぽう明るく伝える!ということ。これが私がイタリアで学んだ『魔法』<フランカ式・愉快な生き方>なのです。

先日、久しぶりにフランカおばさんから電話がかかってきました。
その声は昔と何も変わらず元気一杯。
さっきマユミからの手紙が届いたよ!有り難う。ずっとマユミのことを忘れないよ。大好きだよ!」
フランカおばさんの事を思い出すと、いつも元気百倍。今度は、私が誰かを元気にしてあげる番です!壁がしゃべるよ_f0084086_10175371.jpg

                                    
  『白鳩』平成21年11月号  掲載





山本真由美 (ソプラノ歌手)プロフィール


国立音楽大学、同大学院を経て文化庁オペラ研修所修了。平成2年度文化庁派遣芸術家在外研修員としてミラノで研鑽を積む。'91年、イタリアで開催された「第9回パヴィア国際声楽コンクール」第1位受賞。’98年に帰国。帰国後は、新国立劇場をはじめ、数多くのオペラやコンサート、リサイタル、テレビやラジオ番組に出演。現在は、国立音楽大学、金城学院大学非常勤講師として後進の指導も行っている。東京二期会会員。
# by ancella4 | 2009-12-20 10:30

マンマのランチ

あの日、私はいつものようにデパ地下でお弁当を買い新幹線に乗り込みました。発車して早速、待ちに待ったランチタイム!メニューは、特大エビがのっかったエビサラダ。
「あれ?お箸はどこ?」
予期せぬ突然の不幸。さて、お箸がないままどうやってエビサラダを食べるか?目的地に到着するまでの3時間食べずに我慢する・ワゴン車がまわって来たらお箸がないかどうか聞いてみる・今すぐ<手づかみ>で食べる、この三者択一。そもそも人間はお猿のように手づかみで食事していたわけだし<手づかみ>に何の遠慮がいるものか。周りの目を気にしながらもお腹がすいていた私は夢中でムシャムシャと<手づかみ>でエビサラダを食べました。(明日からはマイ箸派になろうかなぁ。)そんな事を考えながら食べていたら、ふと最近立て続けに起こった<食を脅かす事件>の事を思い出しました。どの事件も“みつかりさえしなければ悪い事をしても構わない”という悪しき大人達の自分勝手な仕業。悪しき者はしっかり裁きを受け大いに反省してもらわなければ困りますが、ここで私が考えたのは(もしかしたら私達も自分たちが食べる物を人任せにしすぎているのではないか?)という事でした。

問題になっている<中国餃子>をはじめ、世の中には簡単に安く食べることができる食品が溢れています。そして、これがすべて安全だと思い込んでいる私達。この意識こそ大きな落とし穴であり油断ではないのかと思ったのです。

子供だった頃、冷凍食品やレトルトパックなどは今ほど安くなかったので我が家の食卓には決してあがることはありませんでした。<おやつ>も母や祖母の手づくり。パンの耳をバターと砂糖で炒めた<カリカリパン>、薩摩芋を揚げた<大学芋>、バナナに衣をつけて揚げて砂糖をまぶした<バナナフライ>、時々登場した<ホットケーキ>etc.・・・。

しかし今の多くの子供達は、誰が作ったかもわからない<他人任せのおやつ>を食べているのではありませんか?<餃子>だって、そもそも家族みんなで作る家庭料理だと本家本元の中国人に聞いたことがあります。手軽に安く食べられるからという理由で喜んで購入する消費者側にも反省すべき点はあるように感じるのです。自給自足が無理でも、せめて自分たちが食べる分ぐらいは、信頼できる食材を確保して自炊していればまずは安心。他人をとやかく言う前に、自分の日常生活を今一度考え直すことも必要ではないかと思ったのです。

ミラノに住んでいた時、私のマンマ(お母さん)がわりだった近所のオバサンは、できあいのお惣菜は絶対に買わず、外食もめったにしない人でした。そもそもミラノには日本のようにあちこちにファーストフード店やスーパーやコンビニがありません。あったとしても決して安くはありませんから、必然的に自分が食べるものは自分でつくるのが当たり前なのです。

当時、私は朝6時に家を出て、2時間かけて声楽のレッスンに通っていました。そして列車の中で食べる朝食と昼食用のサンドイッチを必ず自分で作って持って行きました。なぜならイタリアでは、店がいきなり臨時休業したり、品物がなかったりであてになりません。
『人をあてにしない。自分の命は自分で守る!』これがイタリア留学中、私が自然に学んだことです。

ある日オバサンは私に「自分の命を守るのは自分だけ。だから私は誰が作ったのかわからない物は絶対に口にしたくないね。」と言いました。オバサンの徹底ぶりには頭が下がります。肉や卵、ソーセージやハム、乳製品、野菜やパンでさえも信頼したお店でしか絶対に買いません。そんなオバサンが、ある日私をランチに招いてくれたことがありました。約束の12時にお邪魔すると、オバサンは「今日の料理はこの肉。蒸すのと焼くのとどっちがいい?」と、私に肉屋で買ってきたばかりの新鮮な鶏肉を見せてこう言いました。ご馳走がテーブルにならんでいるかと思いきや、そこには生肉が待っていました。

(もうお腹がぺこぺこなのに、これから料理を作るなんて・・・)

テーブルの前で、オバサンの料理する手元をじっとみつめて出来上がりを待ちました。

「市場で買ってきたばかりのエルバ(草)、これでサラダを作るよ。肉は蒸すからね。食べる時に自分で塩・胡椒・オリーブオイルで味つけして食べなさい。出来上がるまでワインとパンでも食べていなさい。このパンは隣のパン屋でさっき買ってきたばかりだからね。」

オバサンは私に材料の説明や調理法・味付けに至るまで説明しました。

「さあ出来た。沢山召し上がれ!」

食卓に並んだ手造りランチは決して豪華ではなかったけれど、これほど満腹を感じたことはありませんでした。すべてが私の為に用意された食材。私の好みを気遣ってくれたオバサンの優しさ。何が入っているかわからないものは何ひとつなく、安心して食べられる。私だけのための特製ランチがとても嬉しかったのです。これこそ<マンマのおもてなし>。心からのおもてなしをうけました。

今も懐かしく<マンマ特製ランチ>を思い出します。ちなみに私が作って持って行ったサンドイッチはとても簡単なもの。丸いパンにチーズとハムを挟んだものと、ジャムとバターをぬったもの。ちょっと手間隙かけるだけで食べ損ねることもなければ、中身も安全!気持ちすっきり!

やっぱり<安心第一>が生活の基本ですね!

追伸:
最近の日本では、パンに針がはいっていたり、ジャムだって中身が安全だとは言い切れない。なんと嘆かわしいことか!かつての日本は<世界一安全な国>とまで言われていたのに。
私たち日本人の心はこの先、どこへ向かっていくのだろう?
ただひたすら金儲け?そしてあとはお気楽人生&現実逃避?他人任せの責任のがれ?
これでいいのか?このままでいいのか?

(「白鳩」誌2008年12月号(日本教文社)に掲載されたエッセイ・山本真由美著に加筆)
# by ancella4 | 2008-12-29 13:59

ヒナちゃんの死

<親子猫>でブログ「日々の思い」にも時々登場していた飼い猫、お母さん猫のヒナちゃんが先月24日、雪が降りつもった寒い日、夕暮れとともに静かに息を引き取りました。          (推定13歳)
2月はじめまで元気にご飯も食べ、日向ぼっこも大好きだったのに、いつもの口内炎でご飯をたべなくなりました。まさかこれが<別れ>のはじまりだったとは、このとき一体だれが想像したでしょう。一昨年頃からヒナちゃんは年に2回くらいの割合で口内炎ができて、ご飯が食べられなくなりました。でもすぐかかりつけのお医者様に注射をしてもらえば治っていたのです。今回ばかりは、・・・これがただの口内炎ではなかったのでした。

ヒナちゃんは、注射をしてもらってもまったく自分からご飯も食べようとはしませんでした。そして、次の日には水さえも飲まなくなってしまったのです。お医者様にまた連れて行き、スポイドでペースト状の栄養食を先生に食べさせてもらい、栄養剤の注射もして、家でも口をあけるのを嫌がるヒナちゃんを無理矢理つかまえては流動食をスポイドで与え、そんな日が約10日間ほど続きました。ヒナちゃんはよくなるどころか、どんどん痩せていきました。どうしてやったらよいのか・・・。もはや藁にもすがる気持ちで、毎日病院通いが続きました。そして、やがて人間の力ではどうすることもできない状況にヒナちゃんは陥ってしまったのです。

口内炎がおさまっても全く食べようとしないヒナちゃん。血液検査の結果、なんといきなり血糖値が500を越えていると、急遽、インシュリン投与がはじまりました。あまりにも急展開の結果に頭が真っ白、言葉をうしなってしまいました。口内炎で治療を受けるたびに、もしかすると他の病気の兆候ではないのかと、私はいつも先生にはきいていたのに・・・。その時、先生はいつも「体質かもしれないです。こうゆう猫っていますよ。もっとダイエットさせて・・・」の言葉のみで、すっかり安心していたのでした。

結局、ヒナちゃんは血液検査で糖尿病かもしれないと診断され、即、検査入院をしインシュリン投与開始二日目。「やっぱり糖尿病ではないかもしれない。数値が安定してしまったから。このお腹が横に腫れているのが気になるけど、レントゲンでは便がつまっているのがわかったからまずは帰ってから浣腸してやりなさい。それで食欲がでてくるといいんだけど。ちょっと黄疸の数値が出てるか?」なんとも不確かなお答えに、私の心配はつのるばかり。でも糖尿病ではないと診断されて、少しだけ胸を撫で下ろしヒナちゃんを喜んで家に連れて帰ったのでした。
二日ぶりに帰ってきたヒナちゃんは、いくぶん元気そうにみえました。いつものカマクラ型のベットに入り、やわらかい陽射しをあびてお昼ねをしていました。でもその表情は相変わらず眉間に皺をよせているかのように、目を細め、箱座りをしたまま、息苦しそうにしていました。

ヒナちゃんは全く食べないどころか、水さえも飲まなくなりました。心配で仕方なく、また翌朝病院へ行き、ブドウ糖がはいった栄養点滴をうけて帰ってきました。家では強制的にスポイドで栄養食を口に流し込む作業が続きました。いつも、とてもききわけがよいヒナちゃんなのに、すごく口をあけるのを嫌がりました。ヒナちゃんが大好きだったご飯の時間が、今や地獄のような辛い時間になりました。「これでヒナちゃん、元気になるから頑張って食べてね・・・」

ヒナちゃんの状態は、いくら先生のところで点滴をうけても、益々悪くなるばかりでした。毛並みはボサボサ、足はヨロヨロとして歩くのも大変そうになってしまいました。横になって寝ることもできず、苦しそうに箱座りしたまま、目を細めて夜も一睡もできない様子を、私はずっとそばで見守ってあげるだけしかできません。その夜、ついにまっ黄色の胃液を吐きました。(これはまさしく、黄疸・・・。もう助からないの?)先生のところでは、病状がいっこうにはっきりしなかったので、インターネットでそれらしい病状を調べていたら<肝リピドーシス>という病気とそっくりの症状だという事に気づきました。太った猫がかかりやすい病気。何かの理由で4日間も食べていなければ、体内の蓄積された脂肪が肝臓に集まり、あっという間に肝臓が脂肪になってしまい完全に肝機能がストップしてしまうという命にかかわるおそろしい病気。こんな大変な病気だったら、ただの点滴でいいはずはない!!
でもこんな事態におよんで、かかりつけのお医者様は明日から海外出張?!そこで紹介された新しい病院へ翌朝すぐにヒナちゃんを抱いて駆け込みました。「これは肝リピドーシスの兆候です。今すぐ、24時間の点滴をしてやりましょう。点滴すれば少しは楽になるはずです。今はとても辛い状態で、亡くなってもおかしくないほど脱水しています。」(・・・やっぱり・・・肝リピドーシスだ・・・)(ここまで病状が重くならないうちに、なぜもっと適切な治療ができなかったの?)正直、長年お世話になっていたかかりつけの先生を恨み、自分をも責めました。(いつも優しく、丁寧に診察してくださっていた先生だったのに、何故一番大事な時にヒナちゃんを助けてくれないの?)どんなにこれまでを悔やみ、自分を責め、たとえ先生を恨んでも、ヒナちゃんはもうよくなりません。今はせめて、日本を留守にしてくれた先生が素晴しい先生を紹介してくださったことに感謝し、この先生に導かれたことに感謝して、ヒナちゃんが一刻でも楽になるよう、神様に全託すること。これが最良の道でした。もうそれ以外、私がヒナちゃんにしてやれることは残っていませんでした。

これまで、いつもヒナちゃんは入院するとき、一緒に帰りたいとないて私にしがみついていたのに、この時のヒナちゃんは不思議なことに、お医者様に抱きかかえられると、まるで安心した様子で処置室に入っていきました。ヒナちゃんは明るく清潔な病室の一室?(1メートル20センチくらいの高さに位置した広めのゲージ)に入って、なんと水を飲むしぐさまでしてみせ、まるで「ここならいいよ。」といっているかのような落ち着いた表情をして私をしっかりとした目で何かを訴えているかのように見つめたのでした。(あたたかい雰囲気がただようこの病室、きっとヒナちゃんは気に入ったのかもしれない?私達にこれ以上迷惑をかけたくない?どういうつもりなの?)
今でも、ヒナちゃんが私達に最後に見せた、まるで元気だったときのような余裕を漂わせた凛とした姿を思い出すと、人間にはない魂の気高さというか、本能というか・・・言葉にならない感動が胸をふさぎました。

・・・実はこの前日、ヒナちゃんはとても不思議な行動をしていました。去年の秋ごろまでヒナちゃんはずっと2階の私の部屋で一緒に寝起きをしていました。そして、天気がよい日はベランダに出て一日日向ぼっこ。両親の寝室のベットでもお昼ねをしたり・・・。でも冬からすっかり1階の居間で過ごすようになっていたのです。もうその頃、ヒナちゃんは身体の調子が悪かったのかもしれません。
ヒナちゃんが我が家で過ごす最後の日となってしまった2月22日。その日は朝からよいお天気でした。二階の部屋には暖かな陽射しが一杯さしていました。ふと気づくとヒナちゃんは弱々しくヨロヨロと二階まで上ってきたのです。そして、お気に入りの私の部屋に入ってきて、もう飛び上がることができなくなってしまったベットの上に飛び上がろうとしてはズルっと落ち、それでもベットに上りたそうにしているので、抱きかかえてベットにのせてあげると、満足気にしばらく日向ぼっこをし、ふと気づいてきたら今度はベランダに、、、そして、また次の場所にと、まるで陣地を確認しているかのように、次々と移動してはしばらく座り、また移動しては座りを夜まで繰り返していました。その光景を見守っていた私には、まるでヒナちゃんがこの我が家に<お別れ>を言っているかのように感じたのでした・・・

ヒナちゃんは転院先の病院ですぐに24時間体制で点滴治療を受けることになりました。「もしかすると今夜が山かもしれません。出来るだけの事はします。少し意識障害が始まってきているので、最悪の事態になることも覚悟してください。」わざわざ夜中になって、医院長先生からお電話をいただきました。よく飼い主の腕の中で看取ってやるのが、ペットの幸せだ、と本にも書いてあります。=ペットを飼うという事は、最後はペットの<死>を看取ってやるという事が飼い主にとって最大の義務=例外なく私もどうしてあげたらヒナちゃんが幸せなのか、最後の最後まで迷っていました。ヒナちゃんの点滴をはずすということは、即<死>を意味していました。それも苦しい状態のまま・・・。もう我が家に戻ってくることができなくても、ヒナちゃんが苦しまないで楽に寿命を全うできるほうがヒナちゃんにとってよい、このまま病院で点滴をうけさせてあげて身体的苦痛をとってあげる方がヒナちゃんにとって幸せだと思い、「このまま治療をつづけて欲しい。」と、先生に願い出ました。

その夜、とても重苦しく長く眠れない一夜を仔猫のチャッピと過ごしました。ヒナちゃんが必死で生きようと頑張っていた真夜中、フワフワの真っ白い雪がふってきました。それはまるでヒナちゃんのお迎えがやってきたかのような、きれいなきれいな雪でした。ようやく朝になり、先生から連絡が、「今ならまだヒナちゃんに会っても飼い主さんが来たことはわかるはずです。すぐ会いにきてあげてください。大丈夫、まだ生きていますよ。」(うわ~、まだ生きていてくれた!・・・)すぐさまヒナちゃんのもとにかけつけると、酸素室という特別室の中でヒナちゃんは点滴をうけながら横たわっていました。身体が楽になったのか、毛並みも以前のようにフサフサのヒナちゃん。手には点滴チューブをしたまま、ただじっとこちらを見たまま横たわっていました。目はうつろ、手足も動かないほど衰弱したヒナちゃんなのに、私にはヒナちゃんが痛みや苦しみから解放されてなぜかホッと安心して眠っているように見えました。「ヒナちゃん~~」呼びかけると、それまでまるで無反応だったヒナちゃんの手足がバタバタとうごきだしました。目もかすかに瞬きをし、まるで必死で私に返事をかえそうとしているかのようです。「こんなになるまで、身体が悪かったことに気がつかなくてごめんね。」何度も何度も誤りました。そして、ペットを飼うということはその子の命を預かるという事、この重大さを思い知ったのもこの瞬間でした。単なるペットだから、かわいがる時だけかわいがり、病気になったり、いらなくなったら捨ててしまう人の話を耳にするたびに、いつも猛烈な怒りが込み上げてきます。でも今、私のヒナちゃんは、はたして寿命を全うできたのでしょうか?もっと質のよいフードにしてやればよかった・・。猫の健康についての知識も足りなかった・・・。もっと生かしてやりたかった・・・・。悔やんでも悔やみきれない自分への怒りが、込み上げてきました。

ヒナちゃんとの最後の別れは、朝の面会後、約8時間後に訪れました。「もうすぐかもしれません。直ぐ来て下さい」いつもながら先生のご親切な連絡に、家族総出でかけつけました。「今、ここに到着された頃、脳死状態を確認し心臓も一度止まったのですが今また動きだしています。」なんと有難い事に、ヒナちゃんは頑張って生きて私達を待っていてくれました。家族全員でヒナちゃんと過ごした10年間を思い出しながら、お礼を言っているうちに、ヒナちゃんの鼓動はだんだんと弱くなり、やがてしずかに永遠の眠りについたのでした。

ヒナちゃん、本当に我が家に来てくれて有難う。

翌日、盲導犬サーブ号も眠っている長楽寺動物霊園でヒナちゃんのお葬式をしました。ヒナちゃんは今、仏様のおそばで大好きなお経を聴きながら安らかに眠っています。元気な頃、母がお経をあげているとヒナちゃんは必ず母のそばで耳をすましてお経をきいていました。これからは痛みもない世界、辛いことも寂しいこともない楽園で、楽しく過ごしてね。そしてこれからもチャッピを守ってね。そしてそして、本当に沢山の幸せを有難う・・・。 合掌

一年前、元気だった頃のヒナちゃん
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=続編=
ヒナちゃんが突然いなくなってしまった仔猫のチャッピは、寂しがって毎日ずっと鳴き続けていました。初七日をむかえた朝、急にチャッピの様子がかわり、ぐっすり眠りこけているのです。その日をさかえに、チャッピはオリコウサンになりました。時々、ヒナちゃんの祭壇にお供えしてあるご飯を食べたりしているみたいだけれど・・・。これからは、チャッピを守ってあげなくては・・・。
今や、亡き母さん猫ヒナちゃんの残していったチャッピの健康管理を怠ってはならないと、家族中で協力する日々が続いています。
こちらがチャッピ。ヒナちゃんの夢をみているの?ヒナちゃんの死_f0084086_16413081.jpg











こうやって親子で並んでお昼ねしてたのよね・・・ヒナちゃんの死_f0084086_16433333.jpg
# by ancella4 | 2008-03-16 17:06

「Tocca a me!」とは、イタリア語で「私の出番!」という意味。ソプラノ歌手・山本真由美が気ままに書き綴ったエッセー・コーナーです。(写真とエッセイ文の転載・転用はお断りいたします。)


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